故に世の中おもしろい(マロースと北方の地霊)

マロースと北方の地霊

 
昔、極東ロシアを訪れたとき、「マロース」という言葉に出あった。「極寒」の意。その厳しさに接することで魂は浄化され、犯した罪さえ消し去ることができると信じられていた。温暖多湿な日本では理解されにくい概念である。

「でも同じ日本でも、北海道に来ると実感できるのではないか」と銅版画家で武蔵野美大名誉教授の池田良二さんは話す。
本土最東端の根室市生まれ。高校卒業後、上京。

武蔵野美大で学び、独学で銅版画の制作を始めた。北太平洋を望む落石おちいし岬の無線局跡にアトリエを構えて30年超。広大な原野に、約420平方メートルのコンクリート製の建物が立っている。

「ここには大地をゆったりとうような北方の地霊が宿っている。だんだんと自分の存在に自信がなくなり、影が薄れて枯れ木の一本と化すのではないか、消えてしまうのではないか、という気持ちにすらなるときがある」と池田さん。たしかに、異次元の世界にさまよったような不思議な感覚なのだろう。

先日、アトリエを訪ねた。海から吹きつける風が冷たい。北辺のこの地域では、真夏でも朝方には気温5度以下になることも珍しくない。だが、寒さは忌み嫌うものではなく、人間を再生させる生命の根源なのかもしれない。「しかも、中央から離れ、辺境の地に身を置くことで、見えなかったものが見えてくる。しがらみから自分を解き放つことがときには大切なのです」と池田さんは語る。

いつのまにか乳白色の霧に包まれていた。この霧こそ北方の地霊だろう。

朝日新聞編集委員 小泉 信一




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